みそ汁も作れない僕がお赤飯を炊けるようなった理由
- Kaz Saito
- 2021年12月4日
- 読了時間: 3分

11月の料理教室ではお赤飯を和せいろで炊くこをやりました。前日にささげ(お赤飯に使う豆)を煮て、その煮汁でもち米を漬けておき、翌日にせいろで蒸しあげるという手順。蒸すのに1時間かかりますが、10分ごと天地返すたびに様子を変えるもち米の面倒を見るのはとても楽しい作業でしたよ。
出来上がったお赤飯をお重に移して、自宅の庭のなんてんの葉を添えれば、写真のとおり、お祝いにふさわしい表情となりました。このお赤飯は、我が初孫誕生のお祝いといたしましょう。
それにしてもまさか自分がお赤飯を炊くようになるとは。
柳原料理教室の門を叩いた20年前の自分を褒めてあげたい。思い返せば、それはまさに偶然のなせる技。
2001年の同時多発テロは忘れもしない9月11日ですが、その前月の8月にはニューヨークではなく、西海岸ではありましたが、高校に入学した息子と二人してロサンゼルスからサンフランシスコまで2週間のドライブ旅行に出かけていました。帰ってきた直後のあの大惨事、なにやら世界の潮流の潮目を感じたんです。しかも9月11日は、ドンズバで僕の50歳の誕生日だったのですね。
世の中の潮目と同時に半世紀生きた自分がいたというわけです。
当時の僕はそれこそ24時間戦えますか、の仕事バカ。土日祝日もなく、ひたすら仕事の日々を送っていました。50歳の自分を鳥瞰してみれば、仕事は出来るけど、家庭ではなんににもしない、いやなんにも出来ないおっさんだったわけです。趣味もなく、時間が空けば、そう赤坂で深夜までのクラブ活動。週に半分はタクシーで帰宅という、ほんとダメは大人でした。
そんな僕が、日曜に車で出かけたときに車内で聴いたのが、はかまみつおの日曜喫茶室というラジオ番組。その日のゲストが、和食を教える料理教室を主宰する柳原一成さんだったんですね。その語り口がとてもよく、しかも面白いものだったので耳を傾けていたところ、その料理教室は赤坂にあるという。
当時の僕の会社は赤坂で、そのまさに正面の庭付きのお宅が頭に浮かびました。時期になるとなぜかその庭で若い女性たちが鮎を焼いている場面が思い浮かんだんです。ひょっとしてその料理教室って、正面のお宅かと、翌月曜にさっそくそちらを覗きにいってみました。
その日は誰もいらっしゃらず。後で分かったのですが、月曜はお休みだったんですね。でも、表札を見ると「柳原料理教室」とある。これはしたり、という訳でその週のうちに、どうしたら料理が習えるのか、正直、恐る恐る訪ねることとしました。
そこで改めて一成先生とお会いしたのですが、開口一番、
「うちは男性は入れないんだよ」
でも、どうして訪ねてきたのか、と問われ、ラジオ番組のことを話し、さらに自分の会社が目の前であることを語ったわけです。
そうしたところ、うちは大事なお嬢さんたちを預かっているので、男子は原則入れないんだけど、目の前の会社ならそれも縁なので、やってみるかいとのお言葉。いや、ホントにありがたかった。
それをきっかけに和食の道に入り、早20年というわけです。今、曲がりなりにも料理を教える事が出来ているのも、あの日があったからこそ。
そして、20年経った今、お赤飯も炊け、年末になれば、伊達巻きを焼き、お節も作ることが普通に出来るようになりました。
なにが良かったかといえば、なにより飽きることがない。やればやるほど新しい出会いがあり、作れば作るほど、皆さんに喜んでもらえる。仕事をしていてもこれだけ面白く、感謝されたことはなかったかもなあ。こうして、今、そしてこれからもですが、楽しく続けることに出会えた僕は、本当にラッキーだと、あの日のラジオ番組との偶然の出会いに感謝です。
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